どうもこんにちは
地下鉄サリン事件をあなたは知ってますか?
地下鉄サリン事件は未だ日本の人々の記憶に残る事件ですが、この事件を起こした日本史上最凶と言われる宗教団体オウム真理教。
その教祖として日本中を恐怖に陥れた人物っである麻原彰晃の生涯について解説していきたいと思います。
それでは、早速詳しく見ていきたいと思います。
【オウム真理教】世界を震撼させた「麻原彰晃」の全貌が遂に明らかに!
1955年3月、麻原彰晃(本名:松本智津夫)は熊本県にある非常に貧富な畳屋の7人目の子供として生を受けます。
生まれつき緑内障を患っていた為、左目はほとんど見えず右目の視力は1.0程と弱く視力に難を持っていました。
1961年6歳になった智津夫少年は、視覚障害を理由に宿舎付きの盲目学校に入れられ親元を離れます。
智津夫少年はこの時、「親に捨てられた」という強い不信感を抱いたそうです。
学校での智津夫少年は、他の学校の少年を比べ障害が軽度だった為これに優位性を感じたのか次第に周囲の目の見えない子供達に暴力をふるうようになります。
また智津夫少年は金銭に対する執着も凄く、同級生に対して日常的に恐喝を行い金銭を巻き上げる行為をしていました。
なんと、盲学校を卒業する時の13年間で300万円の貯金を貯めるなどしており、この時期から既に独裁者としての変貌を徐々に垣間見れます。
麻原彰晃の迷い
1975年に20歳で盲学校を卒業した松本智津夫は、熊本に戻り長男の漢方薬店の助手として勤務するようになります。
しかし、元従業員が長男を侮辱した事に腹を立て元従業員の頭部を打撲させて罰則金を受けています。
その後、弁護士か宗教家になりたいと思い立った松本は東京大学の進学を目指しますが、受験は失敗に終わっています。
この受験を目指す時の予備校で知り合った石井知子という女性と結婚し、その後盲学校時代に取得した鍼灸の免許を活用して、千葉県で松本鍼灸院を開院します。
これまでは横暴な態度が目立っていた松本でしたが、この時の人を救いたいという情熱と鍼灸の腕前は本物だったらしく、周囲からは好評だったとの事です。
しかし、事業成功の裏で松本は「病気の人を感知させることが出来ない。無駄な事をしているのでは・・・。」と無常観を抱き始め、次第に宗教にのめり込んでいきます。
松本智津夫から麻原彰晃へ
1980年、25歳になった松本は釈迦の直接の教えを説く仏教の一宗派である阿含宗(あごんしゅう)に入信します。
そして3年後の28歳には、仙道・ヨーガ・東洋医学などを統合した超能力開発を目的としたヨガ道場オウムの会を自ら開設します。
そこでは、瞑想や空中浮遊などの超常的な修行に系統していくのですが、この頃の松本は特に暴力や宗教などの雰囲気を感じさせない中世的なヨガの先生といった印象でした。
またこの頃から松本は、自身の事を「麻原彰晃」と名のり始めています。
1985年に麻原は神奈川県のとある海岸で修行中に、アケラケツノミコト(神軍を率いる光の命)になれという神の提示をうけ、翌年の1986年にはオウムの会を宗教団体オウム神仙の会に変更します。
麻原はこの時から既に、武力と超能力を使って国家を転覆させる事やフリーメイソンと戦う事になるだろうと信者たちに語っていたそうです。
この時期に空中浮遊に成功したと言われている写真を撮影し、その写真がオカルト情報誌「ムー」に掲載された事で麻原彰晃は世間から注目を集める事になります。
オウム真理教の誕生
1987年、世間の注目を集めた32歳の麻原は、オウム神仙の会をオウム真理教に変更し多くの信者の反対を押し切り仏教色と過激さを増した団体に路線を変更して積極的に布教活動を行うようになります。
この時の麻原は自身を魅力的な人物に見えるように徹底しており、巧みな話術や振舞いで麻原の元には多くの社会的地位や能力を持った多くの人物が集まるようになります。
それと同時にお布施と称して大金も集まります。
1988年にインドに渡った麻原は、そこでヴァジラヤーナ(暴力を肯定する教え)を知って強く影響を受けます。
そして、帰国するとすぐに信者達に「これからはヴァジラヤーナの掟だ」と告げ日常的に暴力を振る舞うようになります。
結果、2ヶ月後には教団から初の死者を出していおり、その後も修行内容はエスカレートしていきます。
修行内容を一部紹介します。
ダウティ
・布を飲み込む
アンダーグラウンド・サマディ
・地中に埋めたコンテナ内に閉じ込め、コンテナ内の酸素が無くなる時間を過ぎても瞑想を続けるさせる。
血のイニシエーション
・麻原の血液入りの液体を飲む
愛のイニシエーション
・麻原のDNAを含んだ液体を飲む
完全救済イニシエーション
・PSIと呼ばれる電極が付いたヘッドギアを装着し麻原の脳波を再現したとされる数ボルトの電流を流し続ける。
このように修業は非常に過酷なものになっていき多数の死者がでています。
ちなみに苦痛のあまりヘッドギアを外してしまう信者には、手錠をかけ強制的に使用させていました。
これらはの真の目的は全て、洗脳にあったとみられます。
また信者に使用させていた違法薬物のLSDをキリストの骨、覚せい剤をブッタとして乱用させています。
その薬物の体験を、神秘体験と錯覚させ洗脳を行うといった犯罪行為も日常的に行われるようになります。
そんな中麻原は、教団内に約100人の愛人を抱えており毎晩のように「今度特別なイニシエーションがあるから」と言っては、麻原の部屋に女たちが臨時呼ばれてイニシエーションをしています。
麻原は、正妻以外の4人の女性信者に子供を計15人も産ませています。
地下鉄サリン事件の実行
1990年、35歳になった麻原はオウムの支配力向上を目的に衆議院選挙の出馬し信者に作らせた曲を流すなどのパフォーマンスを行うが落選します。
しかし、その一方で選挙でのパフォーマンスが更なる注目を浴びメディアへの露出は増えていきます。
その裏では、オウムの信者に反する者には「肉体と魂を切り離して救済するポア(結果殺す)」が必要だと考え、教団の武装化を目指し禁忌の道を歩み始めます。
1989年の選挙出馬前には、オウム批判をしていた坂本堤弁護士とその一家を選挙の障害になるとして殺害しています。
そして、1993年になると麻原は「全ての魂をポアするぞ」と語り国家転覆を狙って信者達に銃や細菌兵器の開発などの更なる武装化を進めさせ、オウムにとって都合が悪い人物達の暗殺命令を次々に実行に移していきます。
この時にオウムは日常的に殺人を繰り返していて、生物兵器の炭疽菌(たんそきん)を積んだトラックで都内を巡り、フリーメイソンと認定した建物に菌をばら撒くなどのテロ行為を心の底から善として行動していました。
1995年、麻原が40歳を迎えた時に、世界中を震撼させた地下鉄サリン事件を引き起こします。
3月20日午前8時頃、神経ガスのサリンを満たした袋を持たせた実行犯の信者達が、東京都内の地下鉄各所に乗り込み乗車口付近で先端が尖った傘を使い袋に穴をあけ、その後犯人たちは即座にその場を離れて用意していた自動車で逃亡します。
またこれは月曜日の通勤ラッシュのピークを狙った極めて悪質な犯行で、ばら撒かれたサリンを吸い込んだ大勢の乗客は、次々と吐き気や脱力感、手足のしびれや視界不良に陥ります。
現場では、大勢の助けを求める悲鳴とサイレントが鳴り響き悲惨な光景となりました。
この事件で、死者13名・負傷者約6300名にもなりますが、未だ後遺症で苦しんでいる人も多数います。
麻原彰晃の終焉
地下鉄事件から2日後、オウムを危険視していた警視庁はオウム真理教の強制捜査を実施します。
そして、まず初めに教団の幹部数名が逮捕され取り調べによって犯行の全容が明らかになった事で、地下鉄サリン事件に関与した信者40名が逮捕されました。
この時麻原は、様々な策を講じて警察から逃げ回っていましたが事件から二ヶ月後に、オウムが所有する建物の隠し部屋で現金960万円の札束を抱えた状態で発見されます。
そして、麻原彰晃は一連の犯行も首謀者として身柄を拘束されました。
後に行われた裁判では、信者が勝手に暴走したと無罪を主張した麻原でしたが数々の証拠があり覆す事ができませんでした。
裁判官は、「浅ましく愚かしい限り、無慈悲かつ冷酷表情で残酷極まりない」として死刑が言い渡されました。
そこから20年以上の2018年7月、朝食を食べ終えた麻原に死刑執行が告げられ刑が執行されることになりました。
63歳の麻原の最後の言葉はグフッであったと記録されているそうです。
金と支配に人一倍執着した人生を歩みながら歪んだ形での世の救済を目指した異様な教祖の人生はこうして幕を閉じました。
しかし、現在でも麻原の意志を継ぎ団体名を変えて活動を継続している信者は各地に存在しています。
まとめ
世界を震撼させたオウム真理教の教祖である「麻原彰晃」についていかがでしたでしょうか。
麻原彰晃がおこした地下鉄サリン事件は、日本の歴史に残るほど恐ろしい事件です。
犯罪者の過去にさかのぼると、必ずといっていいほど過去の経験が悪影響を巻き起こしている事は間違いありません。
今も尚、日本に限らず世界中で犯罪者が無くならない現状を、いつの日か犯罪者0人の平和な世界が訪れる事を願います。
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